前の日にガス・ヴァン・サントのデビュー作の『マラノーチェ』を観たせいで、第二作の『ドラッグ・ストア・カウボーイ』(1989)も観ることに。うろ覚えだったので今の視点で確認してみようと思ったのでまた鑑賞しました。
映画冒頭から車好きの監督はやってくれます。早速車中から始まります。しかも、救急車の中で主演のマッド・ディロンが酩酊している回想シーンから始まりました。
映画の内容は、やっぱり監督の特徴がはっきり出ていました。『出会いと別れ』、『断絶』、『車』、『道』、そして『車窓』のシーンも当然あるし、何としても『同性愛』と『薬物』も意識させたいのか、無理やり小説家のウィリアム・バロウズ(『裸のランチ』で有名な)本人も出演させています。
並んで本編は、ドラッグ中毒の主人公夫婦と仲間のカップルの四人が、前作に引き続き設定された地元ポートランドで、ドラッグストアや病院などから薬だけを狙う盗みで生計を立てているといった内容です。
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主人公たちは盗んでは使い、余ったら交換し、なくなればまた盗んでの繰り返し。盗んでだら盗んだで、警察に追われ、ドラッグを捨てて、場所を移動するの繰り返し。ドラッグの力で自分に刺激を与え、警察に追われるスリルでまた刺激される毎日。刺激も毎日なら当たり前のつまらない日常へ向かっていく。
そして、主人公は仲間のカップルの内の少女の『死』によって、ドラッグと追われる刺激から引き起こされる酩酊状態からだんだんと目覚めていきます。最後は「別れる」ことによって元にいた場所に戻るだけで終わりました。
しかも、元に戻ることで本当にあったことなのか、幻覚なのか、白昼夢なのかも曖昧にぼやけさせて終わらせます。
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この映画に限らずまた観ていて気づいたのですが、この監督の主人公は必ず「ルーザー(=負け犬)」が主人公です。社会からのはみ出し者、何も持たない者の日常に起こる「出会い」から「別れ」に向かって、人と人の「断絶」を基底に置きながらひたすら進めていきます。
だから、最後はハッピーエンドでもなければバッドエンドでもなく終わる。つまり、「生」と「死」に置いた「出会い」と「別れ」が等しいからこそ、どんなことをしても何もない同じ場所で終る無常観に必ず支配されていきます。
また、どんな作品も内容の原理原則が一緒なので、例外を除けば同じ俳優をこの監督は基本的に使わないです。物語の原則が一緒で演じてる俳優も一緒だと、いくら次の「ルーザー」が別の設定であっても、観た時に同じ印象を抱かれるのを避けるためだからだと思います。そして、同じ「ルーザー」でも色々なタイプがあり、それを描くことがこの監督が映画を撮る理由なのでしょうから。