『人生はローリングストーン』(原題:The End of the Tour)は2015年に公開されたアメリカ映画です。
監督はジェームズ・ポンソルト(『いま、輝くときに』(2013)を観たことがあるくらいです)、主演は作家のデヴィド・フォスター・ウォレス役にジェイソン・シーゲル(癖のある現代社会の落ちこぼれ映画に多数出演)、ローリングストーンの記者でデヴィッド・リプスキー役にジェシー・アイゼンバーグ(『ソーシャル・ネットワーク』が一番有名な売れっ子俳優)となっていました。
映画は実際にいた作家デヴィッド・フォスター・ウォレスの出版記念ツアーに同行したローリングストーンの記者デヴィッド・リプスキーの5日間の回想録(『Although of Course You End Up Becoming Yourself』)が基に作られているそうです。
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また、英語で書かれた文学作品の中でも歴史的傑作と言われている『Infenity Jest』(この映画を観るまで知りませんでした)の出版によって、一気にアメリカで評価が上がっていた時の出版ツアーで共に行動する二人のデヴィッドの対話が中心の映画でした。そして、大きすぎるテーマや悩みなどを深く掘り下げていくような内容の話ではなくて、現代で誰にでも話せる事柄をいくつもの対話によって内容を丁寧に積み重ねていく内容の話になっています。
映画の内容は、かつて取材した作家が自殺した訃報を受けるところから始まり、その記者がかつての取材テープを聴きかえす回想として物語が始まります。その回想の中で新米記者のデヴィッドは出版されたが全く注目されず作家としてはパッとしない人物として描かれており、それとは対照的にもう一人の作家のデヴィッドは出版された作品の評価がうなぎ上りで、今まさに世間の注目を集めている人物として描かれています。
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また、記者が社交的でおしゃべりなデヴィッドで、作家が内向的でシャイなデヴィッドととしても描かれていて対照的なデヴィッドが取材から出会い、対話を始めるところから物語は始まります。
しかし、作家としての名声を羨む記者と名声を手にした作家の対話といった安易な話になっておらず、この映画で二人のデヴィッドは出会った時からやたら馬が合います。最初は電話をかけてもすぐ切られて、田舎で暮らしていて気難しそうな作家といった偏見とは逆に孤独で二頭の犬と慎ましく暮らし、どんな質問にも怒らずに警戒しながらも真摯に答えてくれる思慮の深そうな人物として作家は描かれていました。
もう一人のデヴィッドも新米の記者として、スキャンダラスな噂や変人作家として何かないかと粗探しをしたりして、ローリングストーン誌からハッパもかけられたりもするんですが自分と同じような悩みや弱さしか見つけられなくて、気がついたら兄弟や親友のように話し込んでしまいます。
それでも、出会った時から警戒しつつも心を開いて話してくれる作家のデヴィッドに、NYで暮らし都会生活でありがちなイケてるやつだと思われたい虚栄心を捨てきれない記者のデヴィッドは、それでも対話中に自分が作家としては駄目だと思われたくないと、その話題になるとバカにされそうだと警戒します。
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しかしながら、対話を重ねるうちに同じように作家のデヴィッドも自意識過剰のあまり傷つきやすく自分が負け犬だと今は成功しているにもかかわらず感じていることがわかり、記者のデヴィッドが会う前から感じていた自分が駄目な人間だという考えが、負け犬だと思われたくないと思っていたこととお互いに変わらない感情の表れだと気づきます。
また、ただ気の合う人間同士の話ではなくて、5日間の間に二人は作家の女友達との些細なことからギクシャクし始めます。それによって、記者のデヴィッドはもう一人の作家のデヴィッドが怒ったので勝手に距離を感じて話さなくなりますが、同じように記者のデヴィッドが自分の彼女と作家が電話口で喋った時に嫉妬を感じるシーンもその前にあって、ここから実は二人は似た者同士なのがよくわかる作りになっています。
つまり、同じように自意識過剰で自信のない普通の人間だいうことが、そして、お互いに自分にないものを持っている相手に対して嫉妬して感情をぶつけ合います。一方が社交性と魅力で、他方が才能と名声となって対比させていますが、嫉妬は良いところを認めていることの裏返しなので、そのことについてお互いにわかっているのに素直になれない距離感が最後に露わになっていくので面白いです。
だから、だんだんとお互いに言っていることが、共に別の人間の話ではなくてお互いにお互いのことを言っている内容の対話のようになっていくので、観ているうちに二人の登場人物が一人だけのような気がしてきます。
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作家のデヴィッドはおそらく会った時から似た者同士だと気づいて、シャイで気持ちをうまく伝えられないので、うちの犬はなかなか他人に懐かないのに懐いているようだと記者のデヴィッドに言ったりして心を開いていることを伝えたりします。
それでも、記者のデヴィッドは同じ人間だとわかっているのに最後にこの作家よりも若いこともあってか素直になれずに「俺みたいになりたいか」の質問に「いや」と答えたりしますが、そのシーンが作家として有名か有名じゃないかだけの違いでお互い同じ人間だと気づいているので、「同じ人間だろ」という暗黙の了解の「いや」の返答なのでここは面白いです。
まとめると、この映画は、記者と作家といった距離を置かなければならなかったり、時には対立しなくてはいけない立場の人間関係であっても、人間として似た者同士が出会ってお互いの視点や考え方を対話によって交換していくうちに、そういった距離感や考えがどんどん曖昧になっていき、共に自分と同じ人間がいるという楽しさや孤独感を薄れさせてくれる喜びを些細な対話によってうまく伝えてくれる物語でした。
それはこの映画が秀逸な対話劇で、大きな感動はないですが、誰にでもある気の合う人に会った時の心の喜びを追体験できる作りの映画だからです。つまり、そういった誰にでもある初対面の人間同士の微妙な距離感を対話によって、だんだんと表していくので誰にでも共感できる傑作になっています。
ちなみに、この映画の説明文に書いてあるサスペンス風味の内容は無視してください。的外れもいいところですので、こういった繊細な対話劇では売れないと思ったのか本編のテーマとかなりズレてます。この映画のポスターを観るべしです。ここに描いてあることが全てです。