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痛烈な社会批判の傑作 ついに公開【映画】『ジョーカー』完璧な悲劇であり、完璧な喜劇だった ホアキン・フェニックス主演を観た感想

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 『ジョーカー』ついに公開

 今日は公開が決まってから楽しみにしていた映画『ジョーカー』をロードショーで早速観てきました。この映画の主演は現代最高の役者の一人であるホアキン・フェニックスで、監督脚本はハングオーバーシリーズの監督トッド・フィリップスの意外な組み合わせです。ちなみに映画はヴェネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞しています。

 コメディ映画の監督が撮るシリアスな映画『ジョーカー』

 そして、ホアキン・フェニックスの主演はほぼハズレがないとしても、この監督初のシリアス映画なので、若干の不安を残しての鑑賞でした。その不安の理由は普段馬鹿馬鹿しいコメディ映画を撮っている監督なので、真逆の内容のシリアスな内容の映画を撮った時に力が入りすぎていたり、奇をてらいすぎて内容が破綻してしまうパターンがよくあるからです。単純に言えば、つまらない2時間になる可能性があると思っていたからです。

 しかし結論から言えば、今回の作品『ジョーカー』に関してはその不安が無駄な杞憂に終わりました。なぜなら、この監督はおそらく今の自分ができること以上のことをしていないからです。極めてオーソドックスに至極当たり前の撮り方でしか映画を撮っていないので、却って過剰な演出のないこの映画にかける監督と役者の本気度が伝わってきたからです。

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 だから、映像表現として何か変わっていたり、洒落た構図だったりは一切映画には出てきませんし、主人公のセリフや話の展開に衝撃を狙ったどんでん返しも設けていません。

 また、ジョーカーで簡単にイメージしやすい狂った殺人鬼の一面を見せるような残虐なシーンも設けていません。たとえ殺人シーンであっても映画の中の世界で非常に論理的に作られた普通のやり方しか取っておらず、最初から最後までホアキン・フェニックスのきっちりとした作りの一人劇です。

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 映画の笑えない現実と徹底した現代社会風刺の内容

 しかしながら、それでいて映画自体の内容は非常に重く、社会のヒズミが大きなテーマとして常に存在し続けます。そして、その映画の内容は売れないコメディアンであり、社会の片隅で生きているピエロのアーサー・フレックがもがき苦しむ影の部分しか映し出さないからです。

 例えば、映画の中で与えられる彼の環境は、母子家庭で一緒に住んでいる精神に異常をきたした母親の介護を常にし、社会保障もろくに受けられず、慢性的な不況によってさらに貧困が増しているゴッサムシティになっています。

 そんな中で、主人公が持っている唯一の希望がコメディアンになって人を笑わせて、憧れのコメディアンが司会のテレビ番組に出ることです。しかし、悲しいかな才能がない彼は誰も笑わすこともできないし、ストレスを感じると笑いが止まらない病気で笑わせるというよりも不気味がられる始末です。 

 そして、映画の中で描かれる社会体制が、貧困や虐待や社会的に孤立をしている弱者を守ろうとする側としては全く描かれておらず、逆に政治家やお金持ちの権力者側を守る側として描いていて、一方は没落し続け、他方は繁栄し続ける様子を徹底的に描いていきます。

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 弱いものと強いものは争わない

 つまり、そこにあるのは社会権力とは原則として力のあるものしか守らず、弱いものにはさらに徹底して搾取し、追い込んでいくというメッセージです。そして、ここで注意しなければならないことは、常にしわ寄せがくるのは強い権力側ではなく、一番弱い周縁の人々だということです。現代社会では日本も含めて当たり前に感じてしまうことが皮肉ですが、本来は当たり前でないはずだと思いたいですが。

 この映画の中でも、社会的弱者が強い権力には向かわずに弱いものはより弱いものを見つけて攻撃しようとする人の弱さや本来争うべきでない周縁の人々同士の悲しい争いもしっかり描きこんでおり、そういった貧困や不寛容が招きやすい弱者同士の想像力の欠如や思考停止状態も容赦なく表現されていました。嫌な例えですが、日本だったら、最近は家族内や近所での殺し合いが本当に増えましたよね。

 そして、笑えないピエロを演じるホアキン・フェニックスを常にその中で動かすことで表出される、社会的弱者こそが全ての社会のヒズミの中でもがき、踊らされてしまう悲劇性を現代を模した完璧な社会風刺の喜劇として成り立たせていました。

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 欲望の持つ非可逆的暴力性

 また、欲望が貧困とは別に社会の中で自分を含めて全ての人を壊してしまう側面も弱者側も権力者側も両面で描かれていました。言うなれば、この映画にあった欲望とは、本能的に備わっている生きるために根ざした食べたり寝たりすることではなく、社会的に認められたいといったような承認欲求や他人を犠牲にしても得たり守りたい権力や富に対する欲求です。

 一方は負け犬のアーサー・フレックであり、もう一方が勝ち馬である社会や人々です。しかし、争いたくないからと言って欲望がなければ競争することもなく負け犬になって終っていく現代社会の矛盾。

 そして、映画の中では自分の夢が破れた絶望が向かう時にジョーカーに変貌し無差別に暴力を振るうのが、絶望するまで孤立させられた暴力的な社会であり、自分の見てきた救いようのない世界全てです。

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 だから、この映画で受け取る強いメッセージが、現代社会においてどんなに無関係な人であっても社会に身を置くことは、知らないところで攻撃につながっているのかもしれないし、その攻撃が関係ないとどんなに思えたとしても社会とは全てとの連鎖関係で成り立ち、何らかの力が必ず働いているということです。

 つまり、強い方へはより強くなるための支配力が働き、弱い方へはその力によって暴力的に押さえつけられる形で力関係が流れる傾向があるので、結果的にそのバランスが弱い方を押さえつけすぎると、その反動が強い方側自身に復讐の矢として返ってくる危険性が社会には常にあるとこの映画は問うてきます。

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 ジョーカー側に立ってしまうことの危険性

 また、この映画ではそこまで追い込まれる人間として常にジョーカー側に立っているので、映画でした殺人のような行為が正当化されるように感情移入していってしまいますが、この思考の結果最後に残るものは自分を含め全ての世界の破壊なので何もないです。

 つまり、ただ復讐してやろうとする自分のいる世界の破壊だけが目的だからです。実は生きるための思考でなくて、復讐が元であるために自分を含めた世界を滅ぼそうとしているので、全てがなくなる危険性しかないです。

 そんなことをするぐらいだったら、そこから逃げればと思いますが、なぜ真っ当な方が逃げなくてはならないのでしょうか。また真面目でそんな大胆なことができる勇気がないからこそ、悩んで狂って暴発してしまうのでしょう。

 だからと言って孤立させないしない、不寛容にならないと言っても相手も自分も含めて人はそんなに変わらないし、変われないやるせなさは日本人だったらみんなわかるはずです。そう言った人間を決して擁護も肯定もできませんが、、、。

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 最後にまとめと感想

 最後に、この監督がハングオーバーシリーズで描いていたアメリカ人のパーティの持つ馬鹿馬鹿しさを、実は本当の意味で欲望の招いた馬鹿な行為だと冷めた視点から視て作っていたこともこの映画でわかりました。それとも、コメディを描きたくてもアメリカの能天気さはもう描けないぐらい日本と同じで貧困と搾取による繁栄の問題が根深くなっているのでしょうか。

 じゃないと、映画の中の主人公はずっと笑っていても、観ているこっちは全く笑えない喜劇なんて作らないか。でもこの映画『ジョーカー』バカが見てもわかるのかな。あ、バカなんてこの映画の中の権力者側みたいな思考をしちゃった。かと言ってバカなふりはピエロになるだけだしなあ。あ〜やっぱり笑いたいけど泣きたくなってきました。この映画には救いようない現実しかないです。これはアメリカだけの話ではなくて日本の話でもあるのです。

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