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『Tokyo Eyes』 「カッコイイ」と「カワイイ」があるならそれだけでいい

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 『Tokyo Eyes』は下北沢が舞台のフランス人監督による1998年に公開された日仏映画。

 昔一度観てから何度も何故か思い出すのでDVDを購入してまた観ることにした(なぜか昔近所のダイエーでビデオがカゴ売りされていた)。

 内容は“藪睨み”と呼ばれる愉快犯が都内で起こす連続発泡事件が世間を賑わしている中で出会う若い男女が中心の物語で、主演が武田真治と吉川ひなのの映画だ。

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 武田真治は今では筋肉体操の人で有名かもしれないが、この頃は俳優での活躍が目覚しかった。この映画の中では狂っている部分と少年性が絶妙にブレンドされて何をしてもカッコよく映っている。それに対して、吉川ひなのは今ではセミリタイア気味で、あまり表立った活動はしていないが、この頃の日本ではカワイイの代表格だったと思う。この映画の中では天真爛漫な純真さと少女性が武田と同じように絶妙にブレンドされていて何をしてもカワイく映っている。

 そして、何よりも「カッコイイ」と「カワイイ」があればそれだけでいいじゃないかとこの映画を観ればわかる。この二人の存在が映り込むと普通の電車のシーンも汚い下北の町もレコードコレクターの部屋も薄暗いゲーセンも、一瞬にして素晴らしい場所に変わってしまうし、そう見えてしまう。ただのビル群の見える窓なのにふたりが立っているだけで、Popで「カワイイ」空間に変質する。ふたりが掛けるだけで度のきつい眼鏡がダサいんじゃなくて、同じくPopで「カッコイイ」アイテムになってしまう。

 レトロモダン、温故知新、古いものの中からしか新しいものは生まれない。いわゆる若者文化と呼ばれていた時代の最後のランドマーク映画。この映画で出てくるものや建物や道は全て新しくできたものではない。そこに違うものを持ち込んだり、もともとあるものやそれを置き換えたり作り替えたりしながら、全く別のところや全く別のものとして新しいものを創出していく。ただパクるだけの今のようにコピー&ペーストに全てが支配されるギリギリ前を記録している映画とも言える。

 つまり、オタク文化がまだギリギリサブカルチャーだった時代の刻印。オタク文化はまだギリギリ気持ち悪いとかダサいと思われていた時代。

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 レコードコレクター、コンピューターオタク、留守電、ケータイ、クラブ通い、フリーター、通り魔(この映画の主人公は愉快犯だが)、痴漢、電車、ヤクザ、警察、繁華街、ビル、アパート、マンション、踏切りが一緒くたになって映っている。古いものがそのままあったり、新しいものもあったり、整理されていたり、一緒になったりもしている。気持ちのいい混沌がまだあった場所が東京だった。

 今では全てフラットに淘汰されて透過されて等価されたものになってしまったが、まだこの時は「Eyes(視点)」があれば、自分で自分の価値を決めたり、変えたりすることができた場所。

 そして、色々なEyesで作り出された町を「カッコイイ」と「カワイイ」若者たちを使ってPopに見せながら、フランス人監督の視点が入り込んでスナップしていく映画が『Tokyo Eyes』だったのだろう。

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 それにしても、この映画の根拠のない無敵感はすごいよ。それが「カッコイイ」や「カワイイ」だったりの若者文化だったんだ。しかし、今は何が気持ち悪くてダサいんだろうか。もうないからクサいと汚いばかりが街に溢れてるのか。人も場所ももう消えてしまったとは思うけれど、、、。

 

 

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