『マイ・プライベート・アイダホ』はガス・ヴァン・サント監督の三作目の映画です。処女作の『マラノーチェ』、第二作の『ドラッグストア・カウボーイ』に引き続きオレゴン州ポートランドが舞台の映画で1991年に公開されました。
映画ではナルコレプシー(居眠り病)を持病として抱えた孤独な主人公マイクをリバー・フェニックス(『スタンド・バイ・ミー』)が演じ、もう一方の主人公として同じ男娼仲間で大金持ちの息子役をキアヌ・リーブス(『マトリックス』)が演じています。
内容は男娼仲間である二人の主人公を中心に、始まりも終わりも見えないアメリカのどこにでもある「道」そのものを始まりとして、車やバイクを使いながら遠くはイタリアのローマまで行きつつ最後にはまた同じような「道」で終わる映画です。
そして、ナルコレプシーで度々昏睡状態になる主人公を使いながら、悪夢のような現実なのか、現実のような悪夢なのか曖昧にうまくぼかしながら、物語は終始進んでいきます。
また、前作の『ドラッグ・ストア・カウボーイ』の最後のぼんやりとした現実の続きと言えるのが本作の内容で、もし一作目から主人公を同じ人物で演じさせていれば、これら三作が全くの地続きの映画になることは間違い無いでしょう。
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同じことの繰り返しになりますが、本作も前二作と同じで「出会いと別れ」、「断絶」が主要なテーマとして扱われており、この後の作品全てに見られるいつもの特徴が顕著に表されています。
しかしながら、どの作品よりも「道」というテーマが色濃く示されており「老子」の「道(Tao)」の哲学を映像化したような作品になっています。
「道のあらわれは、かすかでぼんやりとしている」、「道は本来名付けることもない」、「道は使い尽くすことがない」、「道に従えば、万物はありのままの姿を実現する」、「道はおのずから尊い」(引用元:『Tao 老子の教え』安富歩 著)を想起させる抽象的な映像表現を挟みながら、巧みなカメラワークと編集で難解に感じさせずに「車(バイク)」を使い場所を移動させながら物語を進めています。
そして最後まで観ると、この監督の抑えられない衝動なのか、冒頭のカウボーイの人形、男娼グループやレインボーカラーを使った最後のエンドロールなどと言った表現で同性愛映画だとわざわざ主張するので、もうわかったよと押し付けがましさを感じてしまう部分もあります。
しかし、この映画はそういった冒頭と最後を取り除けば、「道」がどんなもので、どんな人でもあくまで自由に「人生」を解釈して生きていいと主張している内容になっており、映画としての普遍性を獲得している映画です。なぜ、わざわざあんな無駄な主張を入れこんでしまったのだろうか。
それとも、最初と最後にそっち系の話を使って表現しますよと、ある種の明示をしてからでないと、同性愛を映画で扱ってはいけないと言った隠れたルールでもあるのだろうか。見ているこちらは欧米の文化ではないし、あくまでストレートなので全くわからないが。
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ところで、処女作の『マラノーチェ』を撮った撮影監督のJohn Campbellの映像表現は真剣に改めて観たら素晴らしいです。映し方がドアや窓や街などの枠を使ったりしながら観ているこちらの焦点をうまく動かして撮るので、抽象的でイメージだけの映像が所々で差し込まれても全く不自然さを感じさせません。こんないいカメラマンがなぜTVの仕事ばかりで、映画をほとんど撮っていないのだろうか。アメリカの映画は制約が多くて、TVよりも自由ではないということなのだろうか。これもなぜなのだろうか。
しかし、この映画はアメリカの広大な自然と俳優たちの個性を使って、様々な奇抜な設定と映像を組み合わせながら「道」として表現した夢も希望もないアメリカンドリームの終焉を表した「夢」の中の映画だと言えるでしょう。